フェアであることの軽やかさと問い続けるフェアネス
迷
ったときはフェアである方を選ぶ。
脳にできるだけ負荷をかけないように選択をミニマルにするというのは以前お話したとおりですが、迷ったときはこうすると決めておくことは選択をミニマルにするために効果的です。
その決めてあることのひとつが、この「迷ったときはフェアである方を選ぶ」なのですが、これはわたしのプリンシプルズの中でも、とりわけファンダメンタルなものです。
なぜなら、選択をミニマルにする役割があるのはもちろんのこと、これをないがしろにすると、選択したあとの脳にかかる負荷まで違ってくるからです。
フェアネスを選んだ小さな選択とその重み
タイのバンコクに遊びに行ったときのことです。
バンヤンツリーホテルのルーフトップバーから帰るとき、フロントでタクシーを呼んでもらい、両替をお願いしました。
夜にタクシーに乗るときは、メーター制ではなく乗車前に料金を交渉することもよくあるそうなので、ぴったりの現金をスムーズに渡せるようにです。
フロントのスタッフさんに1,000バーツ札を渡し、100バーツ札10枚にしてもらおうとしたのですが、スタッフさんが数えているときに、わたしは100バーツ札が11枚になっていることに気づきました。
そのまま11枚をもらってしまおうかという考えがほんの一瞬よぎりました。
でもわたしは、迷ったときはフェアである方を選択したいので、もちろん1枚をスタッフさんに返しました。
人として当然のことだし、取り立ててえらいことをしたわけではありません。
けれどもしそこで、その100バーツ札1枚をもらっていたらそのあとの脳は考えることをやめられなかったはずです。
たった500円足らず(2025年3月で1バーツ4.5円くらいでした)のアンフェアな行動で、脳は考え続けるわけです。
罪悪感や後悔の念を抱くだろうし、正当化も試みるかもしれません。
スタッフさんが疑われてしまうかもしれないなんて妄想もしてしまうかもしれません。
あとになって突然、「あのときなんであんなことしたんだろう」とフラッシュバックすることもあるでしょう。
自分がそんなずるいことをしたという事実は残り続けて、そのために脳はずっと疲弊し続けると思うのです。
フェアであることを選べば、気持ちも脳もすっきりするし、特段えらいことをしたわけではなくても、自分に誇りを持てます。
自己肯定感、Love yourself、そういう気持ちも育めます。
だから、わたしにとってフェアであることはとても大切なのです。
フェアであるってそもそもなに?
ところで先日、フェアであることの根本を揺らがすことがありました。
卑怯だと思う人がいて、その人のことを話していたときのことです。
「そんなフェアじゃないことをして、そういう人は罪悪感に苛まれたり、胸が痛くなったりしないのかな」と本当に疑問に思って聞いてみたのだけど、「その人はその人で自分がフェアだと思ってるんじゃない?」と返されました。
事実を並べたら多くの人がその人をアンフェアだと言うと思うけれど(わたしの主観だからアンフェアであるのが事実とはいえません)、それでもその人はもしかしたら自分のことをフェアだと思っているかもしれないというのは、受け入れるべき視点です。
すると、自分のフェアネスが揺らぎ始めました。
もしかしたら、自分がフェアだと思っていても、他人が同じように考えるとはかぎらない。
フェアであることって一体なんだろうと。
フェアであることは「これはフェアか」と問い続けること
ファンダメンタルなプリンシプルなだけにわりと長いこと考えた末に、突然わたしなりの結論が出ました。
フェアであることは、「これはフェアか」と問い続けることだと。
そして、取るに足らないアンフェアな人は「自分がフェアである」と自分に言い聞かせ続ける人なのではないかと。
すごくすっきりして晴れやかな気持ちになりました。
この前お話した、知らないことを自覚している人と本当は知らないのに知っていると思っている人との構図にも似ていますよね。
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